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鳥女への返信

羽があるなら おまえのほうから
恋 と言いたいところだが
いつも おれのほうから
行くのだったな 首をあらって
ながくして 待っていろ

by puffin99rice | 2008-05-28 21:09  

鳥女からのメール

ぬぎすてて ゆく
きのうまでの さようなら
断崖に 巣をかけたの
あそびに きてね
いのちがけ で

by puffin99rice | 2008-05-27 07:54  

詩人のシノギ(大和田建樹の巻)

 鉄道唱歌の旅 東海道編(http://www.youtube.com/watch?v=ea_76MOZ6vg)



 「新体詩抄」「於母影」そして「島崎藤村」の若菜集の上梓と、明治15年から30年まで(1882〜1897)のことを私なりに学習したわけだが、それはJRでいうなら快速電車にのって大きな駅に下車したにすぎない。当然ほかにも、さまざまな詩人たちの活動があった。そこで今回は各駅停車にのりかえて、詩史の上ではマイナーポエットの「大和田建樹(おおわだ・たてき)」という駅におり立ってみた。



 文学史年表の詩のところをぼーっと眺めていると、明治時代の前半はやたらに「新体」を冠した詩の出版物が多いのに気がつく。「新体詩抄」は明治15年の8月に出ているが、同年10月にはもう「新体詩歌第一集」(竹内節編)というのが現れている。明治19年には、「新体詞選」(山田美妙ほか編)、「簒評新体詩撰」(竹内隆信)、新体詩華・少年姿(山田美妙)と、ぞろぞろ出版されていて、「新体詩抄」の影響の大きさがよくわかる。
 ところで、それと並んで目につくのは「唱歌」の発行である。「小学唱歌初編」(文部省)は、「新体詩抄」の前年に出され、明治16年に「第2編」、17年に「第3編」、20年には「幼稚園唱歌集」とつづいている。新政府が学制を発布したのは、江戸時代の終焉からまだ遠からぬ明治5年(1872)のことで、このとき小学校の教科に唱歌が設けられた。富国強兵の実現には次代を担う子供の教育が不可欠だったから、唱歌といえども民の徳性の向上と国威高揚のためという面を多く含んでいた。それを知ってか知らずか唱歌のもつ平明さと愛唱性は広汎な大衆に受け入れられていった。

 そうした機運のなか、鉄道唱歌(正式名は地理教育鐵道唱歌)は明治33年(1900)に三木書店より第1集が出版され、好評につき第5集まで続編が出された。もともとは子供の勉強に役立たせるために作られた曲であったが(歌詞のなかに地理、歴史、伝説、民話などが折り込まれている)大人にもヒットして、合わせて1千万部という大ベストセラーとなった。作曲は多梅稚、作詞は大和田建樹である。ほかにも「故郷の空」など世に知られた多くの歌詞をかいている。

夕空晴れて秋風吹き
月影落ちて鈴虫鳴く
思へば遠し故郷の空
ああ、我が父母いかにおはす

澄行く水に秋萩たれ
玉なす露は、ススキに満つ
思へば似たり、故郷の野邊
ああわが弟妹(はらから)たれと遊ぶ

(http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/kokyounosora.html)



 大和田建樹(1857〜1910)は、愛媛県の宇和島藩士の家に生まれる。本名は、晴太郎。広島外国語学校で英語を学ぶ。1879(明治12)年に上京。翌年、日本最初の実業家社交クラブ「交詢社」につとめる。1881(明治14)年に東京大学の書記。 1884(明治17)年に東京大学古典講習課講師。 1886(明治19)年に東京高等師範学校教授となる。この年、「新体詩学必携」をかいている。彼もまた「新体詩抄」の薫陶をうけたのである。そして生涯につくった歌詞の数は1300にのぼる。こう言ってよければ、作詞に特化した新体詩人であった。1891(明治24)年に教職を辞し、文筆家となる。1900(明治33)年に「鉄道唱歌」発表。1910(明治43)年に東京新宿で54歳で没。早すぎる死であった。



 彼は、交詢社の書記のあと「学校の先生」になったが、唱歌や軍歌の作詞や雑文などで食べていけるようになると、35歳で文筆業に転じた。 著述は100巻を越えるという。異論もあろうが歌詞を広義の詩とすると、彼は詩を売って生計を立てたことになる。
 このシリーズ初の職業詩人として顕彰したいと思う。

by puffin99rice | 2008-05-23 23:40  

風のカリカチュア 


わわ わ

空に
わが

わ わわわ わ
わ わっ

ふえて

わは
鳥である
わわ
鳥でない

わわ
つらなって
おのおの
まえの
わに
わを はんぶん 
かさねて

わたしら どこへも
わたって
行けないわ
ここで
死ぬの

わお


 わ
  わ
   わ
    わ
     わ
      わ
       わ
        わ
         わ

いっぽんの
鎖となって

おちて行く

そのさきに
月が
ぶらさがってくる

by puffin99rice | 2008-05-18 19:30  

五月の風を

ゼリーにして
とどけたかったのに
坂道を
ころがりおちた
おれだけの
いや
きみのための
いやいや
誰のものでもなかった
あのころ  
美しいひとは
みんな
へんに
まがっていた
みごとに
まっすぐでなかった
信用しよう
おれは
きみではないから
耳を
かじって生きる

by puffin99rice | 2008-05-17 21:15  

あなたにはなんのうらみもありませんが

ぼうしを とって
おじぎして そこから 
ぴすとる とりだして
ずどん うちぬいて
なみだして ひたいに
とどめの あな あけて
おれいを のべて
うたを うたって
かくれがに かえって
ずぼん ぬいで
おりめに そって
きれいに たたんで
おもむろに はだかになって
しゃわー あびて
しゃわー あびて
しゃわー あびて



ねるまえに きまって 
にっきを つけて

by puffin99rice | 2008-05-11 08:32  

詩人のシノギ(島崎藤村の巻)

● MIDI「初恋」(http://hccweb1.bai.ne.jp/kakinoki/midi/midi032.html)





こゝろなきうたのしらべは
ひとふさのぶだうのごとし
なさけあるてにもつまれて
あたゝかきさけとなるらむ
 
ぷだうだなふかくかゝれる
むらさきのそれにあらねど
こゝろあるひとのなさけに
かげにおくふさのみつよつ
 
そはうたのわかきゆゑなり
あぢはひもいろもあさくて
おほかたはかみてすつべき
うたゝねのゆめのそらごと
 

(「若菜集」序)




 明治15年(1882年)の「新体詩抄」を端緒とする新体の詩の創作は、その可能性に多くの者たちをひき寄せていった。その後の十年をみると、前半は「新体詩抄」の「抜刀隊」が西南戦争に材をとったものであるように叙事詩が多く、湯浅半月の「十二の石塚」(明治18年)、落合直文の「孝女白菊の歌」(同21年)、北村透谷「楚囚の詩」(同22年)などがつくられたが、そのあたりから訳詩集「於母影」(同22年)、宮崎湖処子「帰省」(同23年)、中西梅花「新体梅花詩集}(同24年)などの浪漫的な抒情詩があらわれ、際だったふたつの流れとなって熟していったようである。
 そして、その浪漫的な抒情詩の流れのさきに開花したのが、島崎藤村の「若菜集」(明治30年)である。これは近代日本の、文語定型による、翻訳ではない最初の完成された詩的達成であった。「若菜集」は、さまざま傾向の作品をふくんでいて一概には言えぬが、この詩集が広く世に受け入れられたもっとも大きな要因はやはり、かくのように清新な含羞を抒情にのせた歌の調べによってだと思われる。

そはうたのわかきゆゑなり/あぢはひもいろもあさくて/おほかたはかみてすつべき/うたゝねのゆめのそらごと

 この調べで、藤村は恋愛詩をかいた。「まだあげ初めし前髪の」ではじまる代表作「初恋」は曲がつけられ、船木一夫が歌ってヒットしたほど、その詩には愛唱性がある。また「おくめ」の一節、「嗚呼口紅をその口に/君にうつさでやむべきや」などは恋の激情をうたって大衆性が高い。この愛唱性と大衆性、そして恋愛詩であることをもって、今でいうところのポエムの源流とみなすこともできるかもしれない。
 だが現実では、藤村の青春は悲傷にみちて陰鬱なものであった。



 島崎 藤村(1872〜1943年)は、木曾の馬籠(現在の岐阜県中津川市)の島崎家の四男として生まれた。本名は、春樹(はるき)。地方名家の17代当主の父・正樹は国学者だった。その父から『孝経』や『論語』を学ぶ。明治14年には上京し、泰明小学校に通った。三田英学校(現・錦城高校の前身)、共立学校(現・開成高校の前身)を経て、明治学院普通部本科(現・明治学院大学)に入学する。明治19年に父が死亡し、島崎家の没落がはじまる。恩人、吉村忠道の援助で勉学に勤しんだが、そのころから現実とのギャップに懊悩するようになる。卒業後は、一時吉村家の経営する雑貨屋を手伝うが、20歳の時に明治女学校高等科英語科教師となる。

 その翌年、北村透谷らの雑誌『文學界』に参加した。一方で、教え子と関係をもち、教師としての自責からキリスト教を棄て辞職する。1894年(明治27年)に復職したが、透谷が自殺、さらに兄・秀雄が事業の不正疑惑のため収監され、島崎家の生計が藤村の肩にかかるようになる。翌年には愛した教え子が病没。ふたたび女学院を辞職し、放浪の旅にでる。1896年(明治29年)、東北学院教師となり、仙台に赴任。ここも1年で辞したが、この間に詩作にふけり、第一詩集である『若菜集』を発表して一躍文壇の寵児となった。後続の詩集に『一葉舟』『夏草』『落梅集』がある。

 1897年、詩の韻律研究のため東京音楽学校選課に入学。1899年(明治32年)に小諸義塾に赴任、明治女学校の卒業生、秦冬子と結婚。1905年に冬子が死ぬまでに7人の子をもうけた。しかし創作にかけた貧しい生活のなか、次つぎと3人の女児を亡くした。1906年 に小説『破戒』を自費出版。1908年「春」、1910年に「家」を新聞紙上に連載、ようやく文筆一本で生活できるようになったが、1913年 、手伝いに来ていた姪と過ちを犯し、関係を絶つためにフランスへ渡る。帰国後、1918年に「新生」。1929年 に「夜明け前」。1943年(昭和18年)、大作「東方の門」の執筆途上で死去。享年72歳であった。



 さて、こうしてみると、島崎藤村のシノギは「学校の先生」のち「小説家」である。「若菜集」で有名になっても詩では食べていけなかったようで、同時代の作家、正宗白鳥は「自然主義盛衰史」のなかで次のようにかたっている。

「詩人島崎藤村が小説を書きだしたのは、彼の芸術観の変遷によるのであろうが、そればかりではない。実生活を顧慮したためではなかったかと、私は推察している。当時、詩では生活費は得られなかったのであった。新体詩というものは大抵無原稿料で雑誌などに発表されていたのだ。青少年の間に心酔者の多かった藤村にしても、作詩によって得るところはきわめて僅少であったようだ。」



●若菜集(http://www.aozora.gr.jp/cards/000158/files/1508_18509.html)

by puffin99rice | 2008-05-04 14:28