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地蔵前

ここは何処でもないところ
かつて私が暮らし
いまも 少年の私が
棲んでいる町


 ※



 森の向こう側へ大きく曲がっている道なりにトモコが姿を現した。固い雪の面をキュッキュッと踏み鳴らしながら歩いてくる。紺色の厚手のコートにオレンジとイエローの襟巻き。テキストをいれたカバンには鈴のアクセサリーが付いているらしく、彼女の身体が道の起伏に揺れるたびに可愛らしい音をたてた。
「お地蔵さん、おはよ」
 トモコは白い息を吐きながら地蔵のツルツルした頭を二、三回かるく叩いた。朝の挨拶。
「今朝はすごくシバれたのよ」
 言いながら白い息をわざと地蔵の顔面に吹きつけた。これも朝の挨拶。
 地蔵は鼻の穴を大きく開いて少女のあまやかな口臭を嗅いだ。ライオン歯磨き粉の匂いがした。
「なんだか首のところが寒そう」
 トモコは襟巻きをはずすと地蔵の首に巻きつけた。「バスがくるまで貸してあげる」
 それから照れくさそうにカバンからリボンの付いた包みを取り出した。
「なあんだと思う」
 手にもった包みを地蔵の目の辺りにチラチラさせた。地蔵はまた思いきり匂いを嗅いだ。なつかしくて甘い匂い。チョコレートだ。
「あたしの手づくりよ」
 トモコは地蔵と同じ目の高さにしゃがんだ。するとコートの裾がずり上がって制服のスカートの端が顔を出した。地蔵の眼前にトモコの大きな瞳があった。寒気に朱を浮かべた頬。それが次の瞬間にもっと濃い赤に染まった。
「コータのアホにあげるの」
 地蔵はその名に覚えがあった。もう何年も前になるが、そんな名の悪ガキがいた。そういえば小学生だったトモコとよく一緒に遊んでいたな。いたずら好きのとんでもないガキだった。いつだったか、あろうことか顔に立ち小便されたことがあった。そうか、トモコはあのガキと付き合っているのか。気がつかなかった・・・
「お地蔵さんは、やっぱし仏教徒だから興味ないと思うけど、今日はバレンタインデーなのよ。バレンタインデーって、知ってる? あのね、大昔に、キリスト教を信じるバレンタインという国があってね、ほら、大昔だから砂糖がまだ少なくて、甘いものがとても貴重な時代だったそうなの。だからチョコレートは最高の贅沢品でね、はれがましい、ここぞというときにだけ、とくに贈答品として使われたらしいの。それが、そのうち男と女の愛の告白に使われるようになって現在に至ったというわけ。つまり、一年に一度だけ女の方から男に愛をうち明けてもいい日なの。それもチョコレートを渡すだけでオッケーなのよ。その場合とくに手づくりの方が御利益があるの。わかった? 」
 トモコは一気にまくしたてた。毎朝のことなので地蔵は気にしていない。五、六年前に大好きな父親が病死してから、ずっとこの調子だった。トモコがこんなにペラペラ喋るのは地蔵の前でだけだった。他の場所ではおとなしくて目立たない娘なのに、毎日よくもまあ口からデマカセを言えるものだ。しかし地蔵はトモコのホラ話を聞くのが好きだった。それにときどきトモコは本当のことも言う。なにしろ手づくりのチョコレートだからね。微笑ましいな。地蔵はうっかり頬の筋肉をゆるめてしまった。
「あーっ、いま笑ったなー、こいつー」
 トモコは拳で地蔵の頭を小突いた。
「痛てて、やっぱし石頭だあ」
 そこで溜め息をひとつ。
「バカみたいだな、あたしって・・・」
 ひとり芝居からさめたトモコはプレゼントの包みを胸のところで強く抱いた。
 地蔵はちょっと首をかしげた。
 人間って不思議だな。石の彫り物が笑うはずがないと頭から決めつけている。
 バスが来て道をはさんだ地蔵の対面に停った。ということは午前八時。
「じゃあね」
 トモコが飛び乗るとバスは何度もエンジンをふかしながら発進した。もの言わぬ運転士が地蔵に手をあげて挨拶した。地蔵もうっかり手をあげて挨拶を返した。
 バスが行ってしまうと辺りは急に静かになった。一面の雪に朝の日差しが反射しているばかり。今日は昨日より暖かいなと地蔵は思った。とくに首のまわりが。
 それもそのはず、地蔵はまだトモコの襟巻きをしていた。オレンジとイエローの縞模様の襟巻き・・・

一時間後、バスは終点からユーターンして地蔵前に戻ってきた。流氷を見にきた客が二人降りた。お揃いの厚手のヤッケに登山帽子。はちきれんばかりに膨れたリュックサック。駅の改札口を抜けるとき背負った荷がじゃまになり、まっすぐにではなく横になって歩くので、カニ族と呼ばれる若い旅行者たちだ。
「見て見て、かわいい!」
「きゃあ、嘘みたい!」
 二人は地蔵の襟巻きに気がついてはしゃぎだした。かわりばんこに地蔵の隣りに立って何度も写真を撮った。そして、きゃいきゃい喋りながら、さっきトモコが来た道を森の向こうへまわり込むようにして歩き去った。地蔵の位置からは見えないがすぐ近くに海の方へ出る脇道がついているのだった。
 この時季に流氷を見に来るなんて物好きなこった。ついでに露天風呂に入るつもりなんだろうが・・・。地蔵はやれやれというふうに肩をそびやかした。

 密生した枯れ笹の間の狭い雪道を行くと、海岸を見下ろせる高台に出た。そこに観光客のために町民が設営したヤグラが組んであった。
「ガイドブックのとおりだわ」
 ユカリは板の螺旋階段をかけ上がった。海から吹きつける風と、ここ二、三日つづいた快晴のおかげでヤグラの上には雪も氷もなかった。
「待ってよお」 ノンが後から息を切らして追って来た。
 二人は一番てっぺんまで上がると目の前の光景に息をのんで佇んだ。海には無数の流氷がせめぎあって浮かんでいるはずであった。しかし、二人の目に映ったのは水平線の彼方までつづく雪の平原だった。二月の初めに接岸した流氷の上に降雪が何度も積もった結果だった。この時季に絵葉書で見るような流氷の姿を期待する方がどうかしている。
 二人は同時に溜め息をついた。そして憑かれたように前方に広がる白い荒野に見入った。
どのくらいそうしていただろう。ふいにユカリが言った。
「ごめんね、ノン」
「えっ、なにが?」
「こんなところまで付き合わせてさ」
「いいのよ。こんな風景は東京では一生お目にかかれないわ」
  ユカリは小さくかぶりを振った。
「ちがうの。そうじゃなくて、あのさ、あたしの傷心旅行についてきてくれて、ありがとう、って言いたいの」
 ノンはすぐには応えず少し間をおいた。慎重に考えてから、きっぱりと言った。
「忘れなよ、あんな男のことなんか」
ユカリは、ふふふっと笑った。
「いつもながら力強いお言葉。おかげで元気がでるわ。ノンのそういうとこ好きよ」
「同性に好きって言われてもなあ」
 二人は笑いながら、おもむろに階段を下りた。来た道を戻りながらノンがガイドブックをめくった。
「『地蔵の湯』。ここから徒歩十分だって」
 来る途中に見かけた「地蔵の湯」の立て札のところから細道に入って進むと、小さな林に突き当たった。林の中の窪地に湯が涌いていた。周囲の木々が塀の役割を果たして実にお誂え向きの岩風呂だった。けっこう広い。大人でも楽に十人は一度に入れるだろう。
 二人は顔を見合わせた。それから四方を注意深く見渡した。誰もいない。誰も来そうにない。
「入っちゃおうか」
「うん」
 二人は脱いだものを小枝に掛け威勢よく湯に飛び込んだ。最初はちょっと熱くて肌が痺れるような感じ。それにじき慣れると愉悦が二人の全身を巡った。
「いい湯だね」ノンが言った。
「月並みなお言葉。でもその通りよ」 ユカリが笑って応えた。
「だいぶ元気になったようね」
「うん。ありがとう、ノンのおかげよ。それからこの町のおかげ・・・」
「そうね。最初この町に行くって聞いたときはびっくりしたけど。だってこんな最果ての地なんですもの。世をはかなんで自殺でもされたら大変とあたしは思ったわけよ」
 ノンは耐水の腕時計をはずすと時刻が見えるように調整しながら岩の上においた。それで身につけているものは持ち込んだタオル以外に何もない。
「でも、この町に近づくにつれてユカリったら目に見えて元気になったのよ。東京ではいまにも死にそうな顔していたのに」
「この町にはね、不思議な力があるの」
「不思議な力? あたしには辺境を売り物にしているただの観光地にしか思えないけど」
「ううん、そうじゃないの。去年の夏休みに伝承の採集に来たとき、あたしはたしかに感じたの。現代人が歴史の片隅に押しやった不合理な力をね」
「不合理な力? へえ、そんなわけのわからないもので元気になるの。さすがに民俗学をやっている人はちがうわね」
「この地方には古い時代からの民間伝承がまだたくさん残っている・・・」
 言いながらユカリは胸がときめいた。こんな季節外れにやみくもにここにやって来たわけがわかった。立ち直れるかも知れないと思った。
「たしかに古いものがたくさんあるところね。町の真ん中に建っている大時代な時計塔にもびっくりしたけど、さっき乗ってきたバスもやけに年代物だったわね。あんな形のバスははじめてだわ」
 ノンが湯に浸したタオルを絞りながら言った。木漏れ日が湯の表面に溶解した黄金のように点在して浮いているのをユカリは手で掬う仕種をした。
「ボンネット型バスよ。エンジンが前にあるからあんな形をしているの」
 ノンはユカリの生気をすっかり取り戻した顔を見て安心した。もう大丈夫だ。東京に帰れば嫌でもまたあの男と会うことになるだろうが、なんとかやっていけるだろう。岩に背をあずけるとノンは両足を思いきり伸ばした。
「いい気持ち。ずっとここにいたいわね」
「でも次のバスに乗るんだったら、そろそろ出ないと」
 ユカリが岩の上のノンの腕時計を見ながら言った。
「どうしようか?」
 二人はまた目を合わせた。
「次の次のにしようよ。急ぐ旅でもないし」
「賛成・・・」と言いかけて、ユカリは突然押し黙った。
「どうしたの?」
「何かいるわ。木の陰に」
「えっ!」
 二人はわれしらずタオルで胸を隠しながら岩風呂の奥の方に後退した。
「誰かいるの!」ノンが大声を上げた。
 それに応えるかのようにバサバサッと木立の向こうで音がした。二人は恐怖でひしと身を寄せ合った。暴漢か。いや熊かも知れない。冬眠しそこなった人食い熊か! そういえばこの辺からS国立公園にかけては、世界でも有数のヒグマの生息地。さっきまでの幸福感がいっぺんに吹き飛んだ。一寸先は闇ってホントだな。人生ってこんなふうに、ふいに終わるものなんだなあ。ユカリは震えながら考えた。ノンを巻き添えにして悪かったなあ。そうだ、あたしが食べられている間にノンに逃げてもらおう。ユカリは最後の身だしなみのつもりか頭髪を手で整えると、立上って湯のなかを勢いよく進んだ。
「ユカリっ! だめえっ、戻って!」
 ノンが絶叫した。

 しかし、何も起こらなかった。湯から出て木立の向こうに消えたユカリがすぐにノンを呼んだ。その声にはもう切迫した感じはなかった。ノンがおそるおそる湯から上がり外に出ると、ユカリが不審そうに辺りを見まわしていた。
 誰もいない。誰も来た形跡がない。
「何でもなかったみたい」
 カラスかなんか野鳥の羽搏きだったのかもとユカリは思った。
「ねえ、やっぱりもう出発しよう」ノンが言った。ユカリの大胆な行動にはいつもながら驚かされる。心臓に悪いわ。すぐヤケクソになるんだから。ノンは乾いたタオルでさっさと全身を拭いた。湯で温まっているとはいえ、冬の寒気のなかでは急速に体熱が失われる。下着をつけ防寒具をすばやく着込んだ。
「わっ、たいへん」ユカリが裸で立ったまま叫んだ。
「どうしたの。早く着ないと風邪ひくわよ」
「ないの」
「えっ、何が?」
「パンツ・・・」

 ユカリは替えのパンティをつけるとあたふたと防寒具を着た。他の衣服に包んでおいたのだから、いくら薄物とはいえパンティだけ風に飛ばされるわけがない。
「気味が悪いわね」
 二人は走って「地蔵の湯」を離れた。一刻も早くここから立ち去りたかった。ユカリはケチをつけられた気分だった。せっかく元気にしてくれたのに、こんなことでこの町を嫌いになりたくないと思った。きっと、ちょっと好色なカラスのイタズラなんだわ、とありそうもないことで自分を納得させようとしていた。ところが現実は、それ以上にありそうもないことが起こっていたのだった。
 ノンはユカリの下着だけ盗まれたことに気を悪くしている自分に腹を立てていた。よくそういう話を聞いてまさかと笑っていた通俗的な感情が自分にもあったなんて。
 しかし実際は、どんな人間も自分が思っている以上に通俗的なものである。

 二人は息を切らして大きな曲がり角をまわった。ちょうどやって来た「年代物のバス」が乗り場でもない地点で急停車して扉をあけた。運転士が指で乗るように合図している。二人が乗り込むとバスは何度もエンジンをふかしながら発進した。他に乗客はいないのだった。
 二人は座席に倒れ込んでほっと一息ついた。
 車窓から前方にバス停「地蔵前」がどんどん近づいて来るのが見えたが、バスはスピードを緩めようとしない。バス待ちの人影がないのでスルーするつもりらしい。ふと路傍に立っている石像の姿が見えた。襟巻きをした愛嬌のある地蔵菩薩像。頭部にも何か白っぽいものをかぶっている。
「あっ!」二人は同時に叫んだ。
「停めて~っ!」ユカリが金切り声を上げた。
 バスが急ブレーキをかけた。固い雪道にスリップして危うく横転しそうになりながら停った。
 扉を開けさせると、ユカリはバスから飛び降り地蔵まで全力疾走した。こんなに力一杯走るのは小学校の運動会以来だなと頭のどこかで考えている自分が何だか可笑しかった。地蔵の頭から布切れをひったくるように取ると、また全力疾走でかけ戻った。
 バスはユカリを回収して再発進。運転士が身体をのけぞらせて声もなく笑っている。
「悪質なイタズラね」
 ノンが笑いを堪えて言った。さっきまでの恐怖心と怒りは嘘のように消えていた。ユカリも力のかぎり走ったせいかストレスが軽減していた。憤懣と羞恥は捨てようもなかったが、時間が経つにつれて笑いが込み上げてくるのをどうすることもできなかった。
 襟巻きをして頭からすっぽりパンティをかぶったお地蔵さん・・・
 二人はとうとう堪えきれずに爆笑した。

 地蔵は鼻の下を伸ばしながらバスを見送った。にやけた表情をしたので顔全体のバランスが崩れてしまった。これに懲りて、あの娘は二度とこの町には来ないだろう。地蔵は満足そうに頷いた。木の陰から様子を窺っていた私の気配に気づくとは只者ではない。われわれにとっては危険な人間だ。何という名前だったか。そうだ、ユカリとかいっていたな。覚えておこう。
 白地に薄いピンクのストライプが入ったパンティ・・・

 午後になった。バスは定刻通りに往復を繰り返していたが、地蔵の前で乗り降りする客は皆無だった。人通りも殆どなかった。黄緑色の営林署のジープが一台、国有林へ向かって行ったのと、近所の隠居じいさんが愛用のスノーモービルを危なっかしく運転して街の方角へ走り去っただけだった。
 光と風のなかを時間が静かに過ぎていくのが見える。地蔵の内にはすでに百年以上の時間の経過が蓄積されていた。千年かけてゆっくりと風化していくつもりだったが・・・
 地蔵は目を閉じて少し眠った。久しぶりの睡眠だった。
 目覚めると夕方だった。以前に深く眠り込んで起きたときには十年が過ぎていたことがある。目をしばたかせて周囲を窺った。現在は眠る前の一日の続きだろうか? 
 バスが停ってトモコを降ろした。カバンに付けた鈴が可憐に鳴った。地蔵は胸を撫ぜおろした。
 トモコはバスに小さく手を振ってから地蔵の方を向いた。元気がない。いつもならいきなり地蔵の頭をぴしゃりとやって「ただいま」と叫ぶところだ。忘れていった襟巻きを見ても何も言わない。無言で地蔵の首からはずした。
 そのかわりに今朝見たリボン付きの包みを地蔵の頭に叩きつけるように置いた。グシャ、という感じでなかのチョコレートが砕けた。
「あげるわ」
 それだけ言うと、トモコは背を向けてとぼとぼ歩きだした。その背を夕日が赤く染める。辺り一面赤い光のなかに沈んでいく。
 プレゼントを渡せなかった。つまり告白できなかったのだな、と地蔵は思った。どれどれ、ひとつ味見を。地蔵は石の手で器用に包みを開き、チョコレートのかけらを口に放り込んだ。
 うっ・・・
 地蔵はすぐに吐き出した。ぺっぺっと何度も唾を吐いた。溶けたチョコレートが唇の端から顎にかけて一筋流れた。手渡せなかったのは、トモコのためにもアホのコータのためにも幸いだった、と地蔵は心から思った。

       
  (おわり)
































by puffin99rice | 2014-02-12 18:45  

俵松シゲジロウの倦怠

 シゲジロウは大戦前の生まれである。
 幼くして酒屋の丁稚奉公に出され相当苦労した時期もあったが、まあ今となってみれば概ね平穏な人生だったと本人は思っている。
 戦場に駆り出された時も五体満足で本土に帰還できたし、美人ではないが気立ての良い妻を迎えて家庭も持った。一男一女の子宝にも恵まれたし、ごく普通に真面目に働いたおかげで、小さいながらも自分の店を構えるまでになった。
 やがて娘をこれといって取り柄はないが誠実な会社員のところに嫁にやり、家業を継いだ長男も賢くはないが丈夫でよく働く女と一緒になった。いまでは三人の孫までいる。順風満帆とは言い難いが、過不足のない幸福な営みだった。
 しかし、そうした思いに至るとき、彼は何故かいつも溜息をついた。昨日も一昨日も溜息をついた。今朝も、たった今、その口から溜息が洩れた。
「ふう。やれやれ・・・」
 シゲジロウは気を取り直すように顔を上げ、暗い帳場から屋外に視線を移した。
 店の前では「美人ではないが気立ての良かった」老妻のツルエが、残雪をスコップで排水溝に捨てている。その姿をぼんやり眺めながら、「平々凡々な人生だったな」と呟いてみた。


「えっ、何か言ったかえ?」
 ツルエが店の内へ顔を向けた。
「おう、毎日かったるいなあと言ったんじゃ」
 すると奥の洗面所にいた息子のダイスケが歯ブラシをくわえたまま顔を出した。
「そりゃあ、歳のせいだべさ、オヤジ」
「へっ、ばか言え。まだまだお前には負けんわい」
 シゲジロウは自分の中年時代とそっくりになってきた長男を疎ましげに睨みつけた。そして手持ち無沙汰にポケットから皺くちゃにつぶれた「ひびき」の袋を取り出すと朝刊を広げながら一服喫った。
「おう、カムイ市に新設されたレスキュー隊が、いま町に来ているんだってよ」
「そうだってな。昨日、配達に行った先の役場の助役から聞いたべ。朝日地区で大規模な訓練を一週間やるんだって」
 ダイスケが歯を磨きながらモゴモゴと言う。
「ふーん、わざわざこんな田舎でねえ。都会には広い場所がないのかねえ」
 シゲジロウは大袈裟に首を横に振った。
「安全のためだべ。人が密集している所では思い切ったこともできんから」
「じゃが、人が密集している所で実際に事故が起こったら、その訓練は役に立たないんじゃないかい?」
「そんなこと知らんわい」
 ダイスケは話を打ち切って口を濯ぎはじめた。

 シゲジロウは朝刊を持ったまま外に出て、酒の自動販売機のすぐ横にあるベンチに座った。よく晴れ渡った青空から初春の柔らかな光が降りそそいでいる。雪解けの水が太陽の上昇とともに動きはじめ、あらゆる傾斜を流れ下って、排水溝へ、川へ、海へと消えていく。そして一方で絶え間なく蒸発する雪の下から大地がその素顔を露にしつつあった。
 長い冬が終わった。人々は落ち着きをなくし新たな計画のために奔走する。つまり大部分の人間は希望にみちた旅の支度をする。なぜなら爆発的にはじまって、すぐ終わる短い春こそ北国の力の源泉だから、うらぶれた心に、憂欝に、病人に、痩せこけた思想に、哲学的な死にさえ、いっときの活力を与えずにはおかない。
 しかし、彼は退屈だった。何か面白いニュースはないもんかと新聞記事を隅から隅まで目を通す。老齢だが目も耳も達者である。悪いのは口だけ、とは本人の日頃の言い種。
「おはよう、シゲちゃん。ツルエさんも毎朝精が出るねえ」
 古くからの友人が犬の散歩に通りかかって声をかけた。シゲジロウは新聞から顔も上げずに「おはよー」とぶっきらぼうに挨拶を返す。植山理髪店のご隠居は彼と同世代である。そのせいか昔から互いに遠慮がない。
「酒屋がこんな時間から店開けても客来んだろう。あんまり張り切ると若い者に疎まれると違うんか?」
 植山老が皮肉っぽく言った。が、目は笑っている。
「なあに言ってるんだ。この店は俺と一心同体、俺が起きているときは店も開いているのは当たり前じゃ」
「はっはっは。でも、いいかげんに隠居しろよ。ダイスケ君が迷惑がっているぞ」
 それを聞いていた当の本人がまた顔を出す。
「そうだ、そうだ。もっと言ってやってよ、ウチの頑固オヤジにさ。どうせ役に立ってないんだから、余生を楽しめって」
「うるさいな。ひとの話に口を挟むな」
 シゲジロウはダイスケの方に手の甲をひらひら振って、もう引っ込めという仕種。
「相変わらずだなあ。たまには句会に出てこいよ」
 植山老はのそりのそりと歩く大型犬に引き摺られるようにして酒屋の前を通過した。
「ふん、あんな隠居爺さん婆さんの集まりに出ても、なんも面白くないわい」
 そう呟くとまた新聞記事に目を戻した。
 むかし誘われるままに句会に参加したが、じきに飽きてしまった。俳句だけでなく詩吟や三味線もかじったが、どれも長続きしなかった。何をしても、ときめきがない。恙なく日が過ぎていくのは健康な証拠とはいえ面白くない。ちっともドキドキしない。そういえば心の底から怒ったり悲しんだりすることがなくなった。慌てたり、狼狽することもない。いつでも平常心を保っている。
 そんなふうに感情が表に出なくなったのはダイスケの言う通り老齢のせいかも知れない、と彼は思っていた。
「隠居爺さんか・・・、嫌な言葉だ」
 実際のところ店の経営は息子夫婦に委せてあるので、彼も隠居の身同然なのだ。それでも相変わらず店頭に立つのは他にすることがないからだった。
 また溜息が出た。
 如何なるときも心を平らかに保てるのが成熟した人間の証だとしたら、自分は順調に年を重ねてきたということになる。この安らかな境地に何の不満があろうか。幸福というものは退屈なくらいがちょうど良いのだ。そうとも、退屈なのは自分が人生の成功者だからこそだ。
 そう思うとシゲジロウは少しだけ気が晴れた。

 前の道を乗用車が一台通った。ハンドルを握っている若い女性がシゲジロウの方へ軽く会釈した。通過してしまってから、その女性の顔に思い当たった。坂本医院の次女でアヤコという名の娘だ。いつの間に社会人になったのやら。お下げ髪でセーラー服姿の彼女しか記憶になかった。
 それよりも驚いたのは、アヤコが自動車をさっそうと運転して行ったことだった。
 女性ドライバーは珍しいが、最近徐々に増えているらしい。クルマの運転は男の仕事だと思っているシゲジロウには、何となく癪にさわる風潮である。
 電化製品の一般家庭への急速な普及が、女性たちを家事奴隷から解放しつつあった。電話やテレビの所有率も近年目覚ましい伸びをみせた。隣国の動乱がニッポンに齎した軍需景気と相俟って、科学文明の日常化の波が世界大戦の傷口を覆うかのように地方にまで押し寄せていた。
 繁華街にある森元薬局などは、いち早く自動ドアを導入した。物珍しさに客が殺到した、と新聞に出ていたのを見て笑ったものだ。ドアを開け閉めする手間を省いたところで一体何だというのだ。
 とはいうものの、わが俵松酒店にも文明の利器は設置されていた。
 缶入り飲料の自動販売機である。
 新聞をたたみ「よっこらしょ」とベンチから立ち上がった。そういえば今日メーカーの人が点検に来る手筈になっている。硬貨を入れても品物が出てこないという苦情が相次いだのでダイスケが業者に連絡をとったのだ。
 彼は販売機を正面から見た。硬貨の投入口に使用不可の貼り紙がしてある
「ダイスケのやつ、自分で調べたんだろうなあ?」
 硬貨が途中で詰まっているくらいのことなら業者を呼ぶまでもない。帳場から鍵の束を持ってくると、なかの一つを取り出して鍵穴に差し込んだ。販売機の前面が扉のように開いた。
 内部も見たところ異状はない。貼り紙を剥いで硬貨を数枚入れてみた。すると硬貨はスムーズに落下して一枚ごとに「ガチャ」と音をたてた。詰まっている様子もない。
 しかし、缶ビールが落ちてこない。硬貨の受け入れと同時にスイッチが入って、缶ビールを立てて差し込んであるリングが回転し、一番先頭のものを受け皿に押し出す仕組みのはずだが。
 右手を機械の中に伸ばし、あちこちデマカセに引っ張ったり押したりしてみた。何の反応もない。ついには顔を半ば突っ込んで内側を子細に観察し始めた。
 そして、奥の方のリングの下方に缶ビールが一本横倒しになって引っ掛かっているのを発見した。
「これだ、これだ。おーいダイスケ、ちょっと来てみろ!」
 シゲジロウは、親の威厳を示すのはここぞとばかり息子を呼んだ。
「なんだよ、おやじ。あー、また勝手なことして。こわすなよ」
 ダイスケが呆れて言った。
「何言ってるんだよ。これ見てみろ。ここをこうすると、簡単に直るんじゃないか?」
 引っ掛かっている缶を右手でぐいぐい押した。が、なかなか外れない。肩の付け根まで販売機の中に腕を突っ込んで力まかせに押し付けた。その途端、「ガコン」という音とともに当の缶ビールがリングの外に転げ落ちた。
「やったぞ!」
 得意げに叫んだ瞬間、スイッチが入ってリングが作動した。
「ぎゃっ!」
 リングは次の缶を先頭に配置するための回転の際に彼の手首を巻き込んだ。鋭い痛みが真っ直ぐに脳に伝達された。
「どうしたんだ!」
 そばにいたダイスケがびっくりして販売機を覗き込んだ。金属製の輪が父親の手首を噛んでいた。
「ぬ、抜けないっ!」
「大丈夫か、オヤジ!」
 ダイスケが咄嗟にその腕をつかんで引っ張った。
「ぐわっ、この野郎、手首が千切れるっ!」
 取り乱して叫んだ。よほどの激痛だったのだろう。目に涙を浮かべている。
「ご、ごめん・・・」
 息子はあわてて手を放した。
 挟まれた手首から血が流れ出した。皮膚が破れたのだ。しかもリングはさらに回転しようとして食い入って来る。
 シゲジロウは手首を切断される恐怖に戦慄おののいた。
「た、助けてくれっ! 110番だ! 119番だ! 早く医者を呼んでくれ!」
 ダイスケが店からバールを持ち出して来てリングと手首の隙間に突っ込もうと焦る。何事かと駆けつけたツルエは滴り落ちる大量の血に腰を抜かしてしまった。
「いつでも平常心を保っている」はずの老人が、すごい形相で吠えた。
「バカ野郎! 何グズグズしてるんだ! 電話しろっ! 警察だ! 救急車だ! レスキュー隊だ!」
 その剣幕に押されたのか、それとも夫婦愛からなのか、ツルエは必死に電話のあるところまで這って行った。そして110番すると受話器に向かって支離滅裂にたたみかけた。
「たいへん! ウチの主人が大災害! 血まみれ! 爆発した機械にね、挟まれてっ!」
 数分後、パトカーが救急車を先導してすっ飛んで来た。そのあとを消防署の全車両が続いた。事件に気付いた近所の人々が家から飛び出して来て騒然となった。
「こんちくしょう!死んでしまうじゃないか! 誰か何とかしてくれ! バカ野郎!」
 半狂乱で喚く老人に大勢の警察官と消防士が群がって行く。
 俵松酒店前の車道は、パトカーと救急車と消防車と弥次馬でいっぱい。町の中を通ってチパシリ方面に抜けようとしていたクルマは次から次へ立ち往生。オホツク漁港から海産物を満載して来たトラックも何台か同様の目にあった。
 たちまち渋滞の列ができた。
 ちょうど登校時の学生を乗せてきた町営バスもそれ以上進めず、ドアを開いて乗客をみんな降ろした。降ろされた中高生たちはクルマの列に沿ってぞろぞろと学校の方へ歩きはじめた。

「何が起こったんだ?」
 背後から声をかけられ、トモコはハッとして振り向いた。
「お、おはよう・・・」
「相変わらず足が遅いなあ」
 コータがトモコの左横に並んだ。
 並んで歩くのは久しぶりだなとトモコは思った。子供時代と違って、この頃は何となく面と向かって話すのを避けていた。登校時のバスの中でも離れた席に座るようにしていた。昔みたいに気軽に話がしたいのに、恥ずかしさが先にたち、つい引っ込み思案になってしまうのだ。それなのに突然話しかけられて、トモコの顔は耳まで赤くなった。
「マフラーなしで寒くないの?」
 何か喋らないと間がもたない。トモコはどうでもいいようなことを聞いた。
「なんも。俺は身も心も温かい男だからね。ほら、この通り!」
 コータはいきなり自分の手の平を幼なじみの頬にあてた。トモコは「キャッ」と小さく叫んでコータの手を払った。
「アハハハハ、最近お前さあ、しょぼくれてるぞ。昔みたいにバカ笑いのひとつもしてみろよ。俺はそんなトモコの方が好きだな」
 コータは笑いながら人波を掻き分けて行ってしまった。
「あっ・・・」
 何かおちょくられた気分だ。トモコはべえと舌を出した。
 う~、なんて無神経なやつ。ナリばかり大きくなって、頭ん中はガキンチョのままだわ。う~、どうしてくれよう。不幸の手紙を百枚送り付けてやろうかしら。
 トモコは内心で毒づいた。けれども、やがてコータに触れられた所が火傷の記憶みたいに疼きだした。コータの言葉が心の中で何度も旋回した。

 オレハソンナトモコノ ホウガスキダナ・・・
 スキダナ・・・、スキダナ・・・、

 ふん。何だって言うのよ。それじゃあ、今のアタシは嫌いなわけ!
 トモコは急に悲しくなった。目から奇麗な水が数滴こぼれた。
 と、その時。
 後ろから来て彼女の脇を早足ですり抜けたものがあった。
 白いキャップを深く被った縦長の後頭部。茶色のジャンバーに黒ズボン。それは毎朝見慣れた恰好だった。だいいち、さっきまで彼が操縦するクルマに乗っていたのだから。
 町営バスの運転手だった。
 その後ろ姿を見て妙な気分になった。何かがオカシイ。トモコはいつも運転席に座っている彼しか見たことがなかった。だから歩く姿が意外に思われたのだ。
 しかし奇妙な感じがするのは、そのせいではない。
 その歩き方だ。
 彼は全身を硬直させて、まるで一本の柱のようだった。移動する柱である。両手を真っ直ぐ下ろし、伸ばしきったまま前後に振って歩く。両足も真っ直ぐなままで、関節がないみたいに膝を曲げずに進む。
 しかもその不自由そうな歩き方で、恐ろしく速い。登校する生徒と弥次馬でいっぱいになった狭い歩道を、だれにも触れることなく風のように前進していく。道行く人々は誰も彼の存在に気づいてないかのようだ。
 それを追ってトモコがダッシュした。はずみで学生カバンに付けてある鈴がひときわ高く鳴った。
「ご、ごめん。ちょっと通して」
 前を歩いていた二人の女子中学生の間を無理やり抜けた。その後は次から次へと歩行者を左右に突き飛ばしながら走った。

 俵松酒店の前は厚い人垣ができていた。どういう経緯で出動することになったのか不明だが、当地に駐屯しているレスキュー隊も特別仕様車で駆けつけていた。
 謎のバス運転手は器用に身をかわしながら、その人垣の中へスッと消えた。
「あっ、スイマセン、スイマセン」
 すぐ後ろまで迫っていたトモコが、なんとか人垣の中に入ろうと「スイマセン作戦」を展開するが誰も道を譲ってくれない。隙間なくびっしりと人の壁である。でも運転手がこの中に入ったのを確かに見た。どこかに突破口はないものかと辺りをウロウロ歩いた。学校に行くことなどすっかり忘れていた。
 人垣に沿って酒屋と隣家の間に立つ栗の木の下に来た時、しきりに自分の名を呼ぶ声に気づいた。声は頭上から聞こえる。コータの声だ。見上げるとコータが大枝の上から彼女に手を振っている。
「見たいんだろ?登って来いよ、この弥次馬め!」
 えっ、この恰好で木登りしろって言うの。コートの下はセーラー服だ。トモコは一瞬ためらったが、木の根元にカバンを置くと、思い切って幹に取り付いた。最初の枝を掴んですぐに身体を持ち上げた。今でこそオシトヤカ風だが、小さいころは野山を駆け巡ったものだ。とくに木登りは大好きだった。たちまち二番目の枝の上に立った。
「俺の手につかまれ!」
 コータがもう一段高い場所から手を伸ばした。右手を差し出すと、その手首をがしっと掴まれた。力強く巨大な手だった。いきなり身体が浮いて引き上げられた。
「ありがとう。相変わらずバカ力ね」
 トモコはコータと同じ枝の上に立ち、幹に両手を当ててバランスを取ろうとした。けれど、その必要はなかった。コータの右腕が彼女を支えるように背中をまわって小枝を掴んでいた。少女の頬がまた朱に染まった。
 そこからは人垣の向こうの騒ぎが手に取るように見えた。警官と消防士が弥次馬を規制するなか、蜜柑色の防火服を着用した男たちが自動販売機を包囲していた。

「もう駄目だ、死んでしまう!ああ、こんなに血がっ!手遅れだ、死んでしまうっ!」
 酒屋のオヤジは錯乱しているようだ。
 トモコは息をのんで、その光景を見詰めた。
 弥次馬の騒めきを突いて、レスキュー隊員の一人が大声で叫んだ。
「焼き切るしかない!バーナーを持って 来い!」
 すると他の隊員が群衆を押し分けて特別車両まで走った。
 みんなの目がそちらの方に向けられた時、弥次馬の輪の内側に、あのバスの運転手がひょこっと現れた。そして悠然と販売機の横に身を寄せた。一般人は立ち入り禁止のはずなのに何のお咎めもない。そこは販売機の前面を開いたドアのような部分の裏側。レスキュー隊からは死角になっているのだった。
 だが、コータとトモコが立っている木の上からは何もかもよく見えた。
「ねえ、あの、あそこの自動販売機の横にさ、バスの運転手さんが立っているの、見える?」
 トモコが首をひねって上目遣いにコータに尋ねた。
「えっ、運転手?ああ、いるね。あんなとこまで、よく入れたな。それから弥次馬の中には高橋や八木もいるぞ。あいつら学校遅れるなあ。おっ、前の方にマックス発見。先公もいるんだから大丈夫だべ」
 マックスとは松戸という名前の小学校教師の渾名。小学生時代のコータの担任だった。散々手を焼かせて愛想をつかされた。
 コータは例の運転手には関心がないようだった。弥次馬の中に顔見知りを探したり、自動車の数をかぞえたりして喜んでいる。
 トモコはバスの運転手が気になって仕方がない。その方ばかりに目が行く。
 運転手は口許を囲むように両の手の平を頬の辺りに立てた。内緒話をするときの仕種。そして、しきりに頷いたり首を振ったりする。
 やっぱり変だ、とトモコは思った。あれではまるで販売機に囁いているみたいだ。まさか機械に向かって歯を緩めるように説得しているわけではないだろうに。
「おっ、何だ?あの火炎放射器みたいなのは?」
 コータがトモコの耳のそばで呟いた。吐いた息がトモコの首筋をくすぐる。
 弥次馬を掻き分けてガスボンベのようなものを背負ったレスキュー隊員が販売機の前に立った。ボンベから伸びたホースの先の金属製の筒を両手で握っている。
「点火用意!」
 リーダーらしき男が日頃の訓練の成果を見せるべくマニュアルに従って叫んだ 。バーナーを持つ隊員の方も、ついに新装備を実地に使用できるので緊張している。
 シゲジロウは薄れていく意識の底で、破壊された販売機は誰が弁償するのかと考えていた。
「点火!」
 その声と同時にバーナーは紅蓮の炎を鋭く吐いた。見るからに、この世に焼き切れないものは何もないぞと言わんばかりの、意欲満々の炎。
 ふいに挟まれていた手首が軽くなった。ずるっとリングから抜けた。シゲジロウの身体は、そのまま地に崩れ落ちるところを、左右から救急隊員に抱きとめられた。
「やったぞ!」
 群衆の一人が叫ぶと、一斉に拍手の嵐。その中を怪我人は担架にのせられて救急車まで運ばれた。
 レスキュー隊はちょっと拍子抜けした。というのも、弥次馬の側からはバーナーの炎が販売機の内部を瞬時に焼き切ったように見えたが、実際はその前に手首が勝手に外れたのである。
 木の上からは一目瞭然だった。
(・・・・・・?)
 トモコは運転手の方を見た。しかし一瞬目を離した隙に彼の姿は消えていた。

 救急車が走り出した。サイレンが喧しい。警察官と消防士、そしてレスキュー隊がおもむろに撤収をはじめた。旅 まわりの劇団が最後の公演を終え、テントをたたみ舞台装置をトラックに積み込んで、次の巡業地へと立ち去って行くような慌ただしさだ。観客である弥次馬たちも潮がひくように減っていった。それにつれて渋滞が解消され、待ちぼうけを食わされていたクルマたちもスムーズに流れだした。あの運転手のバスもその中にあった。
 列の最後の一台が行ってしまうと、辺りは静けさを取り戻した。元々そう煩雑にクルマが通る道ではないのだ。交通量は絶対的に少なくて、信号機も駅前に一つあるだけの小さな町の出来事だった。
 だからコータの目にはまるで世界中の自動車が一堂に会したように映った。
 高校を卒業したら真っ先に運転免許を取ろう。これからはクルマの時代だ。オートバイもいいな。
映画のシーンみたいに後ろに女の子を乗せて走るんだ。そうだ、こいつも乗せてやろう。
 コータは興奮して幼なじみの顔をのぞき込んだ。
「トモコ、あのさあ・・・」
 そのとき、いい香りがした。石鹸の匂いだろうか、少女の体臭だろうか、得も言われぬフレーバーに少年の野性が覚醒した。
 コータは突然トモコを力まかせに抱き締めたい誘惑にかられた。
「えっ、なあに?」
 トモコがぼんやり応える。まだバスの運転手のことを考えているのだ。
 コータは言おうとしたことを失念してしまった。その口から出たのは、まったく別の言葉だった。
「お前、いい匂いがするな」
 自分でも思いがけない発言。顔が熱くなった。見ると、トモコの顔も真っ赤。
「あっ、いや、あの、深い意味は・・・」
 コータはあわてて弁解しようとした。
 突如、トモコが跳ねた。数メートルもの高さを一気に飛び降りた。華麗な着地。あっけにとられているコータを尻目に、ゆっくりと身体の向きを変える。コータを見上げる。笑っている。
「ねえ、今日は学校サボって、ケーキでも食べに行こうよ」
 優等生の彼女にしては大胆な提言。トモコは、コータが自分を嫌っているわけではないのを確信して、気が晴れてしまったのだ。気がかりな運転手のことも、ひとまず置いておくことにした。
「千秋庵のパーラーでか?いいけど、俺、カネないから、お前のオゴリだぞ」
 そう言うと、コータも勢いよく宙に飛び出した。



 数週間後。
 何十年も続けてきた昨日と同じ朝。
 酒屋のご隠居は店頭のベンチに座って新聞を広げた。
 いい天気である。
 山々の巓付近はまだうっすら白い冠状だが、平野部の雪はあとかたもなく消えた。そこかしこで草花が一斉に芽吹き、大地と空の間に新鮮な土の匂いを充満させていた。
 手首の傷もだいぶ癒えた。出血の割には大した怪我ではなかった。二週間に一回、電気療法に通院すればよい。
「ふわあ・・・」
 包帯をした方の手を口に当てて欠伸をした。
 退屈だなあ。
 平々凡々な毎日だ。何か面白いことないかなあ。何か変わった事件はなかったかなあ。
 シゲジロウは朝刊を舐めるように読みはじめた。
                   
                 (おわり)



 

































by puffin99rice | 2014-02-08 16:19