貯木場の戦い
2016年 01月 22日
ミツルは雪に埋もれたテニスコートの塀に沿って進んだ。背の高いトキオが身を屈めて前を歩いていく。二人とも手袋の両手に一個ずつ雪の玉を握っている。さっき坂の下のポプラの木のところで落ち合ったカンタとヨシキの話では、敵の本隊はすでに営林署の敷地内に侵入して貯木場に陣を張ったらしい。
非常事態だ。
大将のマサユキが風邪で寝込んでいる隙を突かれしまった。ぼくたちの領地を奪還しなくてはならない。ミツルは高ぶる気持ちを抑えることができなかった。マサユキがいないときはナンバー2のミツルがリーダーである。そこでミツルは部隊を二つに分けた。敵の正面に向かうのはカンタとヨシキ、そして途中からその二人に合流する手筈になっているヤマダとオサナイとタケウチの五人。
しかし、実はこの本隊こそ囮で、本当の狙いは背後からの急襲にある。マサユキと同じくらい速い玉を投げられるミツルとトキオがその作戦を決行する役だった。
攻撃は町の時計塔の三時の鐘と同時に開始される。それまでに二人は貯木場の背後に建つ営林署の倉庫に上がって待機していなければならない。あまり時間の余裕はない。ミツルが前をのろのろ歩いている相棒を急かそうとしたとき、トキオが突然言った。
「あ、ウンコタイムね」
ミツルはむっとした。
「さっきもしなかったか?」
「出なかったんだよ。三日も出ていない」
トキオは近くの藪の陰に身を屈めた。
「それはベンピっていうやつだよ。サツマイモを食うといいって、おばあちゃんが言っていた」
ミツルは仕方なく少し離れたところで待つことにした。敵の斥候に遭遇した場合の用心にと握っていた雪の玉を十メートルほど先の電信柱目がけて投げつけた。
見事命中!
雪の玉は長時間握っていると少しずつ溶けて手袋をびしょびしょに濡らしてしまう。ミツルは手袋をはずすと両手でぎゅっと絞った。体熱で生温かくなった水がしたたりおちた。絞りきった手袋は板塀のよく陽のあたる場所にかけた。こうすると少しでも乾くような気がするのだった。
「これって、病気だろうか?」
いきみながらトキオが話しかけてくる。
「そうだろうな。長いことないかもね」
「えーっ、いいかげんなこと言うなよ」
トキオが不安そうな声を出したので、ミツルはくくっと喉で笑った。
「冗談だよ。それより、体調悪いのなら帰ってもいいよ」
「いやだよ。あとでマサユキにどやされてしまう」
そう言ったきりトキオは黙ってしまった。藪の陰から懸命にいきんでいる気配が伝わってくる。よほど頑固な便秘らしい。
「あー、時間がないというのに」
ミツルは塀にもたれて伸びをした。空は雲ひとつなく晴れ渡り、ふりそそぐ陽光が一面の雪に散乱して輝いている。あまりの明るさに目をつぶると、光に透けた自分の瞼の裏側が見えた。周囲の空気は冷えているのに全身は太陽光線で温められているのを感じて、ふっとまどろみそうになった。
そのとき耳もとで声がした。
かすかな笑い声だった。塀に寄っていなければおそらく聞こえなかっただろう。
(テニスコートのなか?)
ミツルは板塀の上の部分、自分の背より高いところに付けられている金網の目を両手で鷲掴みして身体を持ち上げた。
コートのなかには一人の少女がミツルの方に背を向けてしゃがんでいた。
(ハルだ・・・)
ハルは営林署の東側に広がる野原のはずれの家で、町の人々からサンバーサンと呼ばれる変わり者の老婆と暮らしていた。その影響なのかハルもちょっと変わった子で、学校へもあまり行かず每日一人遊びをして過ごしていた。いつも笑いながらぶつぶつ何かを呟き、声をかけられても返事をしないので、薄気味悪がられて近所の子どもたちからは敬遠されていた。
でも、ハルは大きくてよく輝く瞳を持っていた。少女マンガ風に描けば、星がいっぱい詰まった瞳、やや下ぶくれでぽっちゃりした頬、声だって聞き慣れると鈴の音のようだと、ミツルはひそかに思っていたのだった。
だけど、ぼくたちのナワバリに無断で入っては、マサユキが知ったらただではすまないぞ。ミツルは忠告すべきか迷った。話しかけたって無視されるに決まっている。そうなったら力づくでということになるが、ハルにはやりたくなかった。ミツルは見て見ぬふりをすることにした。
ハルの前方に階段状の雪の棚がつくられていて、その上にいろんな雪の人形が置かれていた。ハルの作品らしい。最上段には他のよりも大きな雪人形が二体、座った姿でのせられていた。中段と下段にも上段のものより小さい雪人形がいくつも配置されていた。
(雛壇だ・・・)
雪の人形たちはどれも雪ダルマのできそこないにしか見えないのに、なぜかミツルにはひと目でそれらが御内裏様と御雛様、そして三人官女と五人囃子だとわかった。
ハルは一人ではしゃぎながら雪人形たちに話しかけていた。何を言っているのかは聞き取れない。ときどき甲高く上がる笑い声だけが、なんとかミツルの耳に届くばかり。ひとり言を漏らしながらもハルの手はせっせと動いている。まだ何か作っているらしいが、ミツルからは見えない。
ハルがすっと立ち上がった。完成したようだ。
その足もとには雪の箱のようなものと、それに付属する横倒しの雪ダルマが二つ。
ミツルは金網に顔面を押しつけてハルの新たな作品を見た。雪の箱と見えたのはどうやら乗り物らしい。車輪のようなものがついている。もっとよく確かめようと左右とも2・0の目を細めた。すると横倒しの小さな雪ダルマと見えたものの正体もわかった。頭部らしき部分に角のように見える稚拙な細工を認めた。牛だ。つまり全体としては二頭の牛に引かれた乗り物。馬車でなく牛車というやつのようだ。
サンバーサンの家に雛壇があるとは思えないので、よそで見たものを思い出しながら作ったのだろう。女の子の祝日なのに雛人形を持っていないので、ああやって雪で代わりを捏ねたのだ。
ミツルはハルをいじらしく思った。世間ではハルは奇妙な少女と思われているが、そんなことはない。ごく普通の感情をもった女の子なのだ。瞳もきれいだし・・・
ハルについては不思議な話がたくさん流布していた。子どもの足では登れないはずの山の頂で目撃されたとか、流氷のかけらに乗って漂っていたとか、ヒグマと仲良しだとか、町はずれのお地蔵さんと話していたとか、枚挙にいとまがない。どれも信じられない話ばかりだ。
ミツルはそんな話を聞くたび憤慨した。どうして町の人たちは寄ってたかってハルを好奇の目で見るのだろうか。サンバーサンが変人だからといって、ハルまでそんな風に言われるのは「差別」ではないのか。あんなに可愛いのに・・・
ミツルはハルが好きなのだった。
しかし、サンバーさんとハルは「差別」されているのではなかった。いや、結局のところ「差別」なのかも知れないが、あえて言えば、それは「聖別」と呼ぶべきものである。
突然、ハルが両の手のひらを打ち合わせた。手袋もつけずに作業していたらしい。その音が雪のテニスコートに響いた。
同時に、驚くべきことが起こった。
ミツルは我が目を疑った。雛壇の上で御内裏様と御雛様がすくっと立ち上がったのだ。それが合図だったかのように、中段と下段の雪人形たちも次つぎに立つと、すばやく雛壇からおり、左右に分かれ向かい合って並んだ。その間へ、御内裏様と御雛様がおもむろにおりてくる。手を取り合っておりてくる。歩いておりてくる。おりてくる。足がある。雪ダルマに足がある。
(そんなバカな・・・)
ミツルは息をのんだ。金縛りにあったかのように動けなかった。
ふいに、ハルが振り向いた。
二人の目が合った。
澄んだ湖底に輝く美しい惑星のような瞳がミツルを釘付けにする。
そのまま。
ミツルにはずいぶん長い時間に感じられたが、実際に見つめ合っていたのは刹那だった。ハルがひとさし指を自分の唇に立てて、ゆっくりと首を振ったのを見て、ミツルは我に返った。
何か言おうとしたとき、背後から声がした。
「何してるんだよ。誰がいるのか?」
トキオがズボンのベルトを締め直しながら近づいて来た。
「べ、べつに・・・誰もいないよ」
ミツルはあわてて金網から手を放した。マサユキの親衛隊長であるトキオにハルのことを知られるわけにはいかない。今しがた見た不思議に混乱しているはずなのに、ミツルの頭にとっさに浮かんだのはハルの身の安全だった。
「そ、それより早く行こう。時間がない。待ちくたびれたよ。なげえウンコだったんだな」
「それが出そうで出ないんだよ」
情けない声で応えたトキオを急かしてミツルはその場から離れた。歩きながらミツルは胸がドキドキするのを抑えることができなかった。そのドキドキは、とんでもないものを見たせいなのか、ハルの瞳に魅入られてしまったためなのか、判然としなかった。
二人はテニスコートを過ぎると隣地の営林署長の家の庭に侵入して、突きあたりの壁のやぶれから様子を窺った。そこから営林署の北側が丸見えだった。敵の姿がないのを確認して、すばやく別の建物の陰に走りこんだ。狭い路地が二本、目の前に開いていたが躊躇せず左側の方へかけこんだ。その路地が切れるあたりまで進んだとき町の時計塔が鳴った。
三時だ。
それを合図に鬨の声が上がった。
二人は貯木場の背後にある営林署の倉庫と別の家屋の間に入った。両側から建物が迫っていて人ひとりやっと通れるだけの隙間の道だった。二人はその建物と建物の壁に足をふんばってかけ、少しずつ上へ登りはじめた。
建物の向こうでは歓声が上がっている。激しい攻防が繰り広げられているのがわかった。左右の足を交互に壁に突っ張り下半身の力で登るので体調の悪いトキオは苦しそうだ。額に汗をかいている。
「大丈夫か?」
ミツルが言うと、トキオは今にも死にそうな声で返事をした。
「で、出そうだけど、この格好ではズボンおろせない」
「もう少しだ。ガンバレ」
何がガンバレなのか知らないが、ミツルはとりあえずトキオを励ました。
そして、なんとか貯木場側の屋根(といっても、ビルの屋上みたいな平らな面に積もるにまかせた雪が厚い層をつくっているのだが)までたどりついた。
上に着くやいなやトキオは屋根の反対側の隅にしゃがみこんでしまった。いつの間にかズボンがずり落ちて足首のところでたわんでいる。
「ちえっ、役に立たないやつ」
ミツルは舌打ちすると屋根の縁からそっと貯木場を見下ろした。様子がおかしい。我が軍が敗勢だ。正面から攻撃していたはずの仲間は、みな頭をかかえて逃げ出していた。それを見た敵軍が積んである丸太の陰から飛び出して追撃をかけているのだった。大将らしいやつが陣に残って大声で指図している。
いくら敵が強力でも雪の玉で(多少は痛いが)音を上げるカンタたちではないはず。とくに体力バカのヨシキは雪の玉なんかいくつぶつけられても平気だと日頃から豪語していたのに。
ミツルはなにやら納得できないものを感じながらも、仲間のピンチを救うべく立ち上がった。もうそのときにはハルのことは忘れていた。
「おい、そこの、カボチャ頭!」
ミツルの一投は見事に大将のカボチャ頭に命中した。二階の高さから投げる玉は落下速度がつくので相当痛かったのか、それとも突然後頭部に衝撃をうけてびっくりしたのか、カボチャ頭は目をぱちくりさせながら無言で屋根の上のミツルを睨みつけた。
かなり怒っている。
カボチャ頭は大音声で仲間を呼び戻した。あいつは声が大きいというだけで大将をやっているのかも知れないな。とミツルはぼんやり考えた。
しかし事態は風雲急を告げていた。
「屋根にもいるぞ!」
たちまちミツルたちは包囲された。
そのときはじめてミツルは敵の人数を把握した。全部で八名。カボチャ頭の指示でかれらはキビキビ動いた。半数がすばやく建物をまわりこんで二人の退路を断った。
「やっつけろ! 捕虜にしろ!」
圧倒的優位に立った少年たちが口々に叫んで雪の玉を投げつける。ミツルも自棄になって、雪を握っては投げ握っては投げつけた。しかし前後から飛んで来る敵の玉を夥しく被弾してあっという間に泥だらけになった。
泥?
ミツルはどうしてカンタやヒロキたちが敵前逃亡したのか身をもって知った。
「き、きたねえぞ、おまえら!」
罵ったその口のあたりに敵の玉が命中した。玉のなかに仕込まれていた泥が炸裂してミツルは絶句した。こりゃたまらん。口のなかに飛び込んだ泥をぺっぺっと吐き出した。なんてやつらだ。地面まで雪を掘り下げて泥を集めたにちがいない。凍りついて固い雪の層を掘るのは大変だったろうに。
負けだな、こりゃ。ミツルは急速に戦意を失った。
敵が二人、ミツルたちがやったように両側の壁に足をかけて登りはじめた。後方支援のやつらが泥入りの雪玉を投げ続ける。ミツルは目をあけていられないほど泥まみれ。
(撤退しよう)
ミツルは登ってくる連中に雪の玉をぶつけながら、いざとなったら安全に飛びおりられる場所をさがした。もしこんな狭いところで取っ組み合いになったら、受け身のできない姿勢で落下して大怪我する危険性があるからだ。そうしている間も勇敢な敵がじりじりと登ってくる。頭部にミツルの攻撃をうけてもびくともしない。ここが敵の手におちるのも時間の問題だ。ミツルは次の玉をつくりながらトキオに声をかけた。
「おい、逃げるぞ、ぐずぐずするな!」
すると、すぐそばで歌うように応えた者があった。
「なあに? 逃げるだと? ふっふっふ、ボクちゃんの辞書には、そんな言葉はないのだ。もっとも辞書なんて、ひいたこともないけどね」
驚いてミツルが振り向くと、トキオが晴れやかな顔で立っていた。両腕いっぱい雪の玉を抱えている。
「オレがどんどんつくるからミツルは攻撃に専念してくれ」
そう言うと、トキオは雪の玉をミツルの足もとにどかどか置いて後方に退いた。人が変わったみたいにイキイキしている。
「お、おう・・・」
出鼻をくじかれてミツルは困惑した。まさかトキオをおいて一人で逃げるわけにはいかない。
(玉砕だな、こりゃ)
ミツルは無駄と知りつつもやけくそになって敵の頭上にトキオの雪玉をあめあられと降らした。
すると不思議なことが起こった。不死身のはずの敵の一人がなにやら大声で叫びながらずるずると壁の間を滑り落ちていくではないか。続いて残りの一人も奇妙な声を発して落ち、着地すると同時に二人そろって一目散に逃げ出した。
(一体どうしたんだ?)
あまりに予想外のことが起こったのでミツルは一瞬放心状態におちいった。
「手を休めるな、いまがチャンスだぞ!」
完全に復活したトキオが前に出て、みずからも攻撃を開始した。少年野球のピッチャーであるトキオのコントロールは抜群だ。たちまち地上で援護射撃をしていた連中に一発ずつ入れ、さらに反対側の縁からも敵目がけて投球した。その間も泥入りの雪の玉を全身に浴びているのだが、ものともしない。
「すげえな、トキオ。最高だよ」
ミツルが感嘆の声を上げた。
「やっと三日ぶりに出たからなあ」
トキオが心からすっきりした顔で言った。
「そうか、よかった。おかげで助かったよ。もう駄目かと思った」
「おお、たっぷりあるからな、もう大丈夫だ」
「え?」
そのとき、トキオの速球を顔面にもろに受けた敵の大将の絶叫が聞こえた。
「きったねー、う、うんこだ、うんこだぞ!」
さすがの大将も狼狽のあまり逃げ出した。そうすると他の連中も持ち場を放棄して逃走しはじめた。総崩れだ。
トキオがかさにかかって執拗にその背中を狙い撃ちする。すばらしい。
すばらしいウンコ攻撃だ。
ミツルは握っていた雪の玉をまじまじと見た。白地に黄色いものが滲んでいる。思わず取り落とした。手袋も手のひらのあたりが変色していたので、あわてて脱ぎ捨てた。それから汚れていない雪をひとかたまり掬って、ごしごし手を洗った。
遠くから様子を覗っていたカンタとオサナイ、そしてヨシキとタケウチも戦線に復帰して一気に敵をナワバリの外へ追い払った。
戦利品は、手袋三人分とダンボール箱四つ分の泥濘。
大勝利だ。
我が方の損失は、泥まみれで逃走してそれっきり戻ってこなかったヤマダ。そのまま家に泣いて帰ったのだろう。つまり戦死者一名。残念なことだが、戦いには犠牲がつきもの。他のメンバーより年少のせいか、ヤマダはいつも犠牲者の役である。
貯木場の柵の外をはしる道路に市内バスが停車した。学校帰りの中高生がどやどやと降りる。ほとんどが営林署の職員住宅の子どもたちだ。そのなかに、ひときわ身体のデカイ少年がいる。詰襟の学生服の前をだらしなく開けて(まだ寒い季節なのにヤッケも着ていない)ペッタンコの学生カバンを腋にはさみ、両手はズボンのポケットに突っ込んだまま、ちょっと背を丸めて歩く。他の男子生徒は校則どおり学生帽を被っているのに彼は無帽。長靴がよく似合っている。
「コータさん、こんちわース」
トキオが目ざとく見つけて挨拶した。するとカンタとオサナイもその声に合わせて挨拶した。少し遅れて発声したので二人の声はトキオの大声に消され、後ろの方の「わース」だけがハモって響いた。三人とも大先輩を迎えて緊張している。小学生の頃からコータは有名なワルガキだった。敵はもちろん味方や大人たちからさえも、アホのコータと呼ばれて恐れられた伝説の男だった。
同じく「有名なワルガキ」を目ざしているトキオがコータを憧れの眼差しで見つめた。しかし、そのトキオも今日の出来事を契機に本当に「ワルガキ史」を華やかに飾ることになろうとは、この時点では誰も想像できなかった。一世を風靡したその悪名は、
ウンコのトキオ。
「どうしたんだ、おまえら。泥だらけじゃんか?」
コータが怪訝そうに聞いた。
「下町の連中と一戦やったのさ、やつら、雪んなかに泥を詰めやがって・・・」
苦々しく言ったミツルの頭に、コータが片手を置いた。
「で、どうした? 勝ったのか?」
「なんとかね。トキオのおかげさ」
「そうかそうか。よくやった」
今度はトキオの頭をかるくポンポン叩いた。嬉しそうだ。
「コータにいちゃん、一緒に帰ろう」
同じ官舎に住み家族ぐるみの付き合いをしているので、コータとミツルは歳の離れた兄弟のように親しかった。
「じゃあ、今日はこれで解散!」
背後でトキオが宣言した。今日のことで一躍英雄になったトキオは、マサユキが復帰するまでの間、わが部隊の指揮権を掌握することになるだろう。ちょっと癪だな、とミツルは思った。
官舎は営林署の本部建物(町で一番高い三階建)を中心に四方に点在している。計画的に建てられたものでないのは明らかだ。二階のある一戸建てから平屋の二軒長屋まで家のサイズも形も様々だった。親の役職によって住居の待遇が違うことに子どもたちは気づいていたが、子ども同士の力関係には何の影響も及ぼさなかった。
「コータにいちゃん・・・」
二人がテニスコートの側を通ったときミツルは突然ハルのことを思いだした。
「うん?」
「ちょっと待っていてね」
ミツルは金網に飛びつくと身体を持ち上げてコートのなかを覗いた。
もちろんハルの姿はなかった。あの奇怪な雪の人形たちもなかった。ただ雛壇に見立てた雪の段差が残されているだけだった。一瞬、ミツルの脳裏に、雪の雛人形たちを従えて歩き去るハルの幻像が見えたような気がした。御内裏様と御雛様をのせた牛車に寄り添うように三人官女が付き従い、五人囃子が雛祭りのテーマを奏しながら進む行列・・・
「コータにいちゃん!」
「だから何なんだよ、そこに何かあるのか?」
「にいちゃんは、女の子を好きになったことある?」
「ええっ? このやろう、さてはその歳でもう色気づいたのかよ!」
コータの大きな手がミツルの背中をひとつどやしつけた。軽くやったつもりでも、小学生と高校生では体格にも腕力にも格段の差がある。しかもコータは怪力無双。ミツルの身体は宙を飛んで、塀側の雪の吹き溜まりに頭から突っ込んだ。
「いやあ、悪い悪い、アハハハハハハハッ・・・」
コータの豪快な笑い声を遠くのもののように聞きながら、ミツルは顔の火照りを雪のなかで冷やしていた。
(了)
初出 1993年3月 「変な味がする話」第2号
※関連作品はメニュー「以前の記事」から↓
●地蔵前( 2014年2月12 日 )
●俵松シゲジロウの倦怠 ( 2014年2月8日 )
非常事態だ。
大将のマサユキが風邪で寝込んでいる隙を突かれしまった。ぼくたちの領地を奪還しなくてはならない。ミツルは高ぶる気持ちを抑えることができなかった。マサユキがいないときはナンバー2のミツルがリーダーである。そこでミツルは部隊を二つに分けた。敵の正面に向かうのはカンタとヨシキ、そして途中からその二人に合流する手筈になっているヤマダとオサナイとタケウチの五人。
しかし、実はこの本隊こそ囮で、本当の狙いは背後からの急襲にある。マサユキと同じくらい速い玉を投げられるミツルとトキオがその作戦を決行する役だった。
攻撃は町の時計塔の三時の鐘と同時に開始される。それまでに二人は貯木場の背後に建つ営林署の倉庫に上がって待機していなければならない。あまり時間の余裕はない。ミツルが前をのろのろ歩いている相棒を急かそうとしたとき、トキオが突然言った。
「あ、ウンコタイムね」
ミツルはむっとした。
「さっきもしなかったか?」
「出なかったんだよ。三日も出ていない」
トキオは近くの藪の陰に身を屈めた。
「それはベンピっていうやつだよ。サツマイモを食うといいって、おばあちゃんが言っていた」
ミツルは仕方なく少し離れたところで待つことにした。敵の斥候に遭遇した場合の用心にと握っていた雪の玉を十メートルほど先の電信柱目がけて投げつけた。
見事命中!
雪の玉は長時間握っていると少しずつ溶けて手袋をびしょびしょに濡らしてしまう。ミツルは手袋をはずすと両手でぎゅっと絞った。体熱で生温かくなった水がしたたりおちた。絞りきった手袋は板塀のよく陽のあたる場所にかけた。こうすると少しでも乾くような気がするのだった。
「これって、病気だろうか?」
いきみながらトキオが話しかけてくる。
「そうだろうな。長いことないかもね」
「えーっ、いいかげんなこと言うなよ」
トキオが不安そうな声を出したので、ミツルはくくっと喉で笑った。
「冗談だよ。それより、体調悪いのなら帰ってもいいよ」
「いやだよ。あとでマサユキにどやされてしまう」
そう言ったきりトキオは黙ってしまった。藪の陰から懸命にいきんでいる気配が伝わってくる。よほど頑固な便秘らしい。
「あー、時間がないというのに」
ミツルは塀にもたれて伸びをした。空は雲ひとつなく晴れ渡り、ふりそそぐ陽光が一面の雪に散乱して輝いている。あまりの明るさに目をつぶると、光に透けた自分の瞼の裏側が見えた。周囲の空気は冷えているのに全身は太陽光線で温められているのを感じて、ふっとまどろみそうになった。
そのとき耳もとで声がした。
かすかな笑い声だった。塀に寄っていなければおそらく聞こえなかっただろう。
(テニスコートのなか?)
ミツルは板塀の上の部分、自分の背より高いところに付けられている金網の目を両手で鷲掴みして身体を持ち上げた。
コートのなかには一人の少女がミツルの方に背を向けてしゃがんでいた。
(ハルだ・・・)
ハルは営林署の東側に広がる野原のはずれの家で、町の人々からサンバーサンと呼ばれる変わり者の老婆と暮らしていた。その影響なのかハルもちょっと変わった子で、学校へもあまり行かず每日一人遊びをして過ごしていた。いつも笑いながらぶつぶつ何かを呟き、声をかけられても返事をしないので、薄気味悪がられて近所の子どもたちからは敬遠されていた。
でも、ハルは大きくてよく輝く瞳を持っていた。少女マンガ風に描けば、星がいっぱい詰まった瞳、やや下ぶくれでぽっちゃりした頬、声だって聞き慣れると鈴の音のようだと、ミツルはひそかに思っていたのだった。
だけど、ぼくたちのナワバリに無断で入っては、マサユキが知ったらただではすまないぞ。ミツルは忠告すべきか迷った。話しかけたって無視されるに決まっている。そうなったら力づくでということになるが、ハルにはやりたくなかった。ミツルは見て見ぬふりをすることにした。
ハルの前方に階段状の雪の棚がつくられていて、その上にいろんな雪の人形が置かれていた。ハルの作品らしい。最上段には他のよりも大きな雪人形が二体、座った姿でのせられていた。中段と下段にも上段のものより小さい雪人形がいくつも配置されていた。
(雛壇だ・・・)
雪の人形たちはどれも雪ダルマのできそこないにしか見えないのに、なぜかミツルにはひと目でそれらが御内裏様と御雛様、そして三人官女と五人囃子だとわかった。
ハルは一人ではしゃぎながら雪人形たちに話しかけていた。何を言っているのかは聞き取れない。ときどき甲高く上がる笑い声だけが、なんとかミツルの耳に届くばかり。ひとり言を漏らしながらもハルの手はせっせと動いている。まだ何か作っているらしいが、ミツルからは見えない。
ハルがすっと立ち上がった。完成したようだ。
その足もとには雪の箱のようなものと、それに付属する横倒しの雪ダルマが二つ。
ミツルは金網に顔面を押しつけてハルの新たな作品を見た。雪の箱と見えたのはどうやら乗り物らしい。車輪のようなものがついている。もっとよく確かめようと左右とも2・0の目を細めた。すると横倒しの小さな雪ダルマと見えたものの正体もわかった。頭部らしき部分に角のように見える稚拙な細工を認めた。牛だ。つまり全体としては二頭の牛に引かれた乗り物。馬車でなく牛車というやつのようだ。
サンバーサンの家に雛壇があるとは思えないので、よそで見たものを思い出しながら作ったのだろう。女の子の祝日なのに雛人形を持っていないので、ああやって雪で代わりを捏ねたのだ。
ミツルはハルをいじらしく思った。世間ではハルは奇妙な少女と思われているが、そんなことはない。ごく普通の感情をもった女の子なのだ。瞳もきれいだし・・・
ハルについては不思議な話がたくさん流布していた。子どもの足では登れないはずの山の頂で目撃されたとか、流氷のかけらに乗って漂っていたとか、ヒグマと仲良しだとか、町はずれのお地蔵さんと話していたとか、枚挙にいとまがない。どれも信じられない話ばかりだ。
ミツルはそんな話を聞くたび憤慨した。どうして町の人たちは寄ってたかってハルを好奇の目で見るのだろうか。サンバーサンが変人だからといって、ハルまでそんな風に言われるのは「差別」ではないのか。あんなに可愛いのに・・・
ミツルはハルが好きなのだった。
しかし、サンバーさんとハルは「差別」されているのではなかった。いや、結局のところ「差別」なのかも知れないが、あえて言えば、それは「聖別」と呼ぶべきものである。
突然、ハルが両の手のひらを打ち合わせた。手袋もつけずに作業していたらしい。その音が雪のテニスコートに響いた。
同時に、驚くべきことが起こった。
ミツルは我が目を疑った。雛壇の上で御内裏様と御雛様がすくっと立ち上がったのだ。それが合図だったかのように、中段と下段の雪人形たちも次つぎに立つと、すばやく雛壇からおり、左右に分かれ向かい合って並んだ。その間へ、御内裏様と御雛様がおもむろにおりてくる。手を取り合っておりてくる。歩いておりてくる。おりてくる。足がある。雪ダルマに足がある。
(そんなバカな・・・)
ミツルは息をのんだ。金縛りにあったかのように動けなかった。
ふいに、ハルが振り向いた。
二人の目が合った。
澄んだ湖底に輝く美しい惑星のような瞳がミツルを釘付けにする。
そのまま。
ミツルにはずいぶん長い時間に感じられたが、実際に見つめ合っていたのは刹那だった。ハルがひとさし指を自分の唇に立てて、ゆっくりと首を振ったのを見て、ミツルは我に返った。
何か言おうとしたとき、背後から声がした。
「何してるんだよ。誰がいるのか?」
トキオがズボンのベルトを締め直しながら近づいて来た。
「べ、べつに・・・誰もいないよ」
ミツルはあわてて金網から手を放した。マサユキの親衛隊長であるトキオにハルのことを知られるわけにはいかない。今しがた見た不思議に混乱しているはずなのに、ミツルの頭にとっさに浮かんだのはハルの身の安全だった。
「そ、それより早く行こう。時間がない。待ちくたびれたよ。なげえウンコだったんだな」
「それが出そうで出ないんだよ」
情けない声で応えたトキオを急かしてミツルはその場から離れた。歩きながらミツルは胸がドキドキするのを抑えることができなかった。そのドキドキは、とんでもないものを見たせいなのか、ハルの瞳に魅入られてしまったためなのか、判然としなかった。
二人はテニスコートを過ぎると隣地の営林署長の家の庭に侵入して、突きあたりの壁のやぶれから様子を窺った。そこから営林署の北側が丸見えだった。敵の姿がないのを確認して、すばやく別の建物の陰に走りこんだ。狭い路地が二本、目の前に開いていたが躊躇せず左側の方へかけこんだ。その路地が切れるあたりまで進んだとき町の時計塔が鳴った。
三時だ。
それを合図に鬨の声が上がった。
二人は貯木場の背後にある営林署の倉庫と別の家屋の間に入った。両側から建物が迫っていて人ひとりやっと通れるだけの隙間の道だった。二人はその建物と建物の壁に足をふんばってかけ、少しずつ上へ登りはじめた。
建物の向こうでは歓声が上がっている。激しい攻防が繰り広げられているのがわかった。左右の足を交互に壁に突っ張り下半身の力で登るので体調の悪いトキオは苦しそうだ。額に汗をかいている。
「大丈夫か?」
ミツルが言うと、トキオは今にも死にそうな声で返事をした。
「で、出そうだけど、この格好ではズボンおろせない」
「もう少しだ。ガンバレ」
何がガンバレなのか知らないが、ミツルはとりあえずトキオを励ました。
そして、なんとか貯木場側の屋根(といっても、ビルの屋上みたいな平らな面に積もるにまかせた雪が厚い層をつくっているのだが)までたどりついた。
上に着くやいなやトキオは屋根の反対側の隅にしゃがみこんでしまった。いつの間にかズボンがずり落ちて足首のところでたわんでいる。
「ちえっ、役に立たないやつ」
ミツルは舌打ちすると屋根の縁からそっと貯木場を見下ろした。様子がおかしい。我が軍が敗勢だ。正面から攻撃していたはずの仲間は、みな頭をかかえて逃げ出していた。それを見た敵軍が積んである丸太の陰から飛び出して追撃をかけているのだった。大将らしいやつが陣に残って大声で指図している。
いくら敵が強力でも雪の玉で(多少は痛いが)音を上げるカンタたちではないはず。とくに体力バカのヨシキは雪の玉なんかいくつぶつけられても平気だと日頃から豪語していたのに。
ミツルはなにやら納得できないものを感じながらも、仲間のピンチを救うべく立ち上がった。もうそのときにはハルのことは忘れていた。
「おい、そこの、カボチャ頭!」
ミツルの一投は見事に大将のカボチャ頭に命中した。二階の高さから投げる玉は落下速度がつくので相当痛かったのか、それとも突然後頭部に衝撃をうけてびっくりしたのか、カボチャ頭は目をぱちくりさせながら無言で屋根の上のミツルを睨みつけた。
かなり怒っている。
カボチャ頭は大音声で仲間を呼び戻した。あいつは声が大きいというだけで大将をやっているのかも知れないな。とミツルはぼんやり考えた。
しかし事態は風雲急を告げていた。
「屋根にもいるぞ!」
たちまちミツルたちは包囲された。
そのときはじめてミツルは敵の人数を把握した。全部で八名。カボチャ頭の指示でかれらはキビキビ動いた。半数がすばやく建物をまわりこんで二人の退路を断った。
「やっつけろ! 捕虜にしろ!」
圧倒的優位に立った少年たちが口々に叫んで雪の玉を投げつける。ミツルも自棄になって、雪を握っては投げ握っては投げつけた。しかし前後から飛んで来る敵の玉を夥しく被弾してあっという間に泥だらけになった。
泥?
ミツルはどうしてカンタやヒロキたちが敵前逃亡したのか身をもって知った。
「き、きたねえぞ、おまえら!」
罵ったその口のあたりに敵の玉が命中した。玉のなかに仕込まれていた泥が炸裂してミツルは絶句した。こりゃたまらん。口のなかに飛び込んだ泥をぺっぺっと吐き出した。なんてやつらだ。地面まで雪を掘り下げて泥を集めたにちがいない。凍りついて固い雪の層を掘るのは大変だったろうに。
負けだな、こりゃ。ミツルは急速に戦意を失った。
敵が二人、ミツルたちがやったように両側の壁に足をかけて登りはじめた。後方支援のやつらが泥入りの雪玉を投げ続ける。ミツルは目をあけていられないほど泥まみれ。
(撤退しよう)
ミツルは登ってくる連中に雪の玉をぶつけながら、いざとなったら安全に飛びおりられる場所をさがした。もしこんな狭いところで取っ組み合いになったら、受け身のできない姿勢で落下して大怪我する危険性があるからだ。そうしている間も勇敢な敵がじりじりと登ってくる。頭部にミツルの攻撃をうけてもびくともしない。ここが敵の手におちるのも時間の問題だ。ミツルは次の玉をつくりながらトキオに声をかけた。
「おい、逃げるぞ、ぐずぐずするな!」
すると、すぐそばで歌うように応えた者があった。
「なあに? 逃げるだと? ふっふっふ、ボクちゃんの辞書には、そんな言葉はないのだ。もっとも辞書なんて、ひいたこともないけどね」
驚いてミツルが振り向くと、トキオが晴れやかな顔で立っていた。両腕いっぱい雪の玉を抱えている。
「オレがどんどんつくるからミツルは攻撃に専念してくれ」
そう言うと、トキオは雪の玉をミツルの足もとにどかどか置いて後方に退いた。人が変わったみたいにイキイキしている。
「お、おう・・・」
出鼻をくじかれてミツルは困惑した。まさかトキオをおいて一人で逃げるわけにはいかない。
(玉砕だな、こりゃ)
ミツルは無駄と知りつつもやけくそになって敵の頭上にトキオの雪玉をあめあられと降らした。
すると不思議なことが起こった。不死身のはずの敵の一人がなにやら大声で叫びながらずるずると壁の間を滑り落ちていくではないか。続いて残りの一人も奇妙な声を発して落ち、着地すると同時に二人そろって一目散に逃げ出した。
(一体どうしたんだ?)
あまりに予想外のことが起こったのでミツルは一瞬放心状態におちいった。
「手を休めるな、いまがチャンスだぞ!」
完全に復活したトキオが前に出て、みずからも攻撃を開始した。少年野球のピッチャーであるトキオのコントロールは抜群だ。たちまち地上で援護射撃をしていた連中に一発ずつ入れ、さらに反対側の縁からも敵目がけて投球した。その間も泥入りの雪の玉を全身に浴びているのだが、ものともしない。
「すげえな、トキオ。最高だよ」
ミツルが感嘆の声を上げた。
「やっと三日ぶりに出たからなあ」
トキオが心からすっきりした顔で言った。
「そうか、よかった。おかげで助かったよ。もう駄目かと思った」
「おお、たっぷりあるからな、もう大丈夫だ」
「え?」
そのとき、トキオの速球を顔面にもろに受けた敵の大将の絶叫が聞こえた。
「きったねー、う、うんこだ、うんこだぞ!」
さすがの大将も狼狽のあまり逃げ出した。そうすると他の連中も持ち場を放棄して逃走しはじめた。総崩れだ。
トキオがかさにかかって執拗にその背中を狙い撃ちする。すばらしい。
すばらしいウンコ攻撃だ。
ミツルは握っていた雪の玉をまじまじと見た。白地に黄色いものが滲んでいる。思わず取り落とした。手袋も手のひらのあたりが変色していたので、あわてて脱ぎ捨てた。それから汚れていない雪をひとかたまり掬って、ごしごし手を洗った。
遠くから様子を覗っていたカンタとオサナイ、そしてヨシキとタケウチも戦線に復帰して一気に敵をナワバリの外へ追い払った。
戦利品は、手袋三人分とダンボール箱四つ分の泥濘。
大勝利だ。
我が方の損失は、泥まみれで逃走してそれっきり戻ってこなかったヤマダ。そのまま家に泣いて帰ったのだろう。つまり戦死者一名。残念なことだが、戦いには犠牲がつきもの。他のメンバーより年少のせいか、ヤマダはいつも犠牲者の役である。
貯木場の柵の外をはしる道路に市内バスが停車した。学校帰りの中高生がどやどやと降りる。ほとんどが営林署の職員住宅の子どもたちだ。そのなかに、ひときわ身体のデカイ少年がいる。詰襟の学生服の前をだらしなく開けて(まだ寒い季節なのにヤッケも着ていない)ペッタンコの学生カバンを腋にはさみ、両手はズボンのポケットに突っ込んだまま、ちょっと背を丸めて歩く。他の男子生徒は校則どおり学生帽を被っているのに彼は無帽。長靴がよく似合っている。
「コータさん、こんちわース」
トキオが目ざとく見つけて挨拶した。するとカンタとオサナイもその声に合わせて挨拶した。少し遅れて発声したので二人の声はトキオの大声に消され、後ろの方の「わース」だけがハモって響いた。三人とも大先輩を迎えて緊張している。小学生の頃からコータは有名なワルガキだった。敵はもちろん味方や大人たちからさえも、アホのコータと呼ばれて恐れられた伝説の男だった。
同じく「有名なワルガキ」を目ざしているトキオがコータを憧れの眼差しで見つめた。しかし、そのトキオも今日の出来事を契機に本当に「ワルガキ史」を華やかに飾ることになろうとは、この時点では誰も想像できなかった。一世を風靡したその悪名は、
ウンコのトキオ。
「どうしたんだ、おまえら。泥だらけじゃんか?」
コータが怪訝そうに聞いた。
「下町の連中と一戦やったのさ、やつら、雪んなかに泥を詰めやがって・・・」
苦々しく言ったミツルの頭に、コータが片手を置いた。
「で、どうした? 勝ったのか?」
「なんとかね。トキオのおかげさ」
「そうかそうか。よくやった」
今度はトキオの頭をかるくポンポン叩いた。嬉しそうだ。
「コータにいちゃん、一緒に帰ろう」
同じ官舎に住み家族ぐるみの付き合いをしているので、コータとミツルは歳の離れた兄弟のように親しかった。
「じゃあ、今日はこれで解散!」
背後でトキオが宣言した。今日のことで一躍英雄になったトキオは、マサユキが復帰するまでの間、わが部隊の指揮権を掌握することになるだろう。ちょっと癪だな、とミツルは思った。
官舎は営林署の本部建物(町で一番高い三階建)を中心に四方に点在している。計画的に建てられたものでないのは明らかだ。二階のある一戸建てから平屋の二軒長屋まで家のサイズも形も様々だった。親の役職によって住居の待遇が違うことに子どもたちは気づいていたが、子ども同士の力関係には何の影響も及ぼさなかった。
「コータにいちゃん・・・」
二人がテニスコートの側を通ったときミツルは突然ハルのことを思いだした。
「うん?」
「ちょっと待っていてね」
ミツルは金網に飛びつくと身体を持ち上げてコートのなかを覗いた。
もちろんハルの姿はなかった。あの奇怪な雪の人形たちもなかった。ただ雛壇に見立てた雪の段差が残されているだけだった。一瞬、ミツルの脳裏に、雪の雛人形たちを従えて歩き去るハルの幻像が見えたような気がした。御内裏様と御雛様をのせた牛車に寄り添うように三人官女が付き従い、五人囃子が雛祭りのテーマを奏しながら進む行列・・・
「コータにいちゃん!」
「だから何なんだよ、そこに何かあるのか?」
「にいちゃんは、女の子を好きになったことある?」
「ええっ? このやろう、さてはその歳でもう色気づいたのかよ!」
コータの大きな手がミツルの背中をひとつどやしつけた。軽くやったつもりでも、小学生と高校生では体格にも腕力にも格段の差がある。しかもコータは怪力無双。ミツルの身体は宙を飛んで、塀側の雪の吹き溜まりに頭から突っ込んだ。
「いやあ、悪い悪い、アハハハハハハハッ・・・」
コータの豪快な笑い声を遠くのもののように聞きながら、ミツルは顔の火照りを雪のなかで冷やしていた。
(了)
初出 1993年3月 「変な味がする話」第2号
※関連作品はメニュー「以前の記事」から↓
●地蔵前( 2014年2月12 日 )
●俵松シゲジロウの倦怠 ( 2014年2月8日 )
by puffin99rice
| 2016-01-22 16:39
| 創作
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